ランドセルの思い出

永田りんこです。

前回はジェンダーとかルッキズムとかの話が、ランドセルの話になりました。ランドセルの思い出を続けます。

私が小学生の頃、ランドセルは黒と赤しかなかった、と言ってもほぼ間違いないでしょう。その頃でも私立の小学校では学校指定のランドセルがあって、それが茶色だったりした、と聞き及んでおりますが。

「仕方なく」の赤いランドセルが、私は気に入っていませんでした。でも、それを口にしたことはありませんでした。母方の祖父母が買ってくれたということはわかっていたので、子どもなりに悪口を言ってはいけないと思っていたのでしょう。色だけではなく、私のランドセルは使っているうちに全体がひしゃげてきました。ランドセルらしい厚みを維持できず、つぶれたようになったのです。今となっては、身体に馴染むように柔らかい革を用いていたのではないか、と思えますが、当時の私は、ひしゃげたランドセルも気に入りませんでした。

気に入らないランドセルを、私は5年生になる直前まで、ほぼ4年間使いました。ここは6年間使い続けたと言うべきところかもしれません。ですが、私は赤いランドセルを二歳下の妹に譲り、手さげカバンを新しく買ってもらいました。これについてはいくつかの事情が重なっています。

まず、当時私たちが通っていた地方都市の小学校では、一・二年生はランドセルではなく、軽い小型で色は黄色の斜め掛けカバン、を採用していました。教科書を学校に置きっぱなしにすることも許されていました。今考えても、とてもいい制度だと思います。ですから、二歳下の妹がランドセルを必要とする時期が、私が5年生になる時だった、ということが一つ目。

二つ目は、その小学校では、高学年(4年生以上)になると、ランドセルを止めて手さげカバンにする生徒が一定数いた、と言う事実です。手提げカバンの上級生をうらやましく見ていました。ちょっと大人っぽく見えたので。

自分が気に入っていないランドセルを妹に押し付ける形になることに、少々後ろめたさはありました。でも、祖父母に買ってもらったランドセルをたいした傷も付けずに大切に使い妹に譲る、という体裁は整っていたと思います。

当時の妹は、どういう気持ちだったでしょうね。お下がりは嬉しくない、というのは万人共通でしょう。私はランドセルを買ってもらい、手さげカバンも買ってもらい、妹は当然「ずるい」と思ったことでしょう。私はわがままを通してもらった、と今も思います。

新しく買ってもらった手さげカバンは、実は革製ではなく高級品でもなく、すぐにあちこち擦り切れました。また、両肩に背負うランドセルから片手で持つカバンへ変えたことで、身体的な負担がずいぶん違うことも、実感としてありました。ですが、小学校を卒業するまで、私はその手さげカバンを使いました。子どもでしたが、それ以上のわがままは言えなかったのでしょう。妹への手前もありましたしね。

 

 

長年参加している勉強会のことージェンダーとルッキズム①ー

永田りんこです。

子どもが同じ幼稚園に通っていた母親同士、というつながりの勉強会に参加しています。メンバーは皆「子どもは幼稚園に通った」という基盤は同じですが、それぞれの人生は実に様々です。そして勉強会のテーマは「子育て」ではなく、自分自身が「美しく生きるということ」で、ずっと変わっていません。決して美容のことではなく「よりよく生きる」ということです。これは大テーマなので、ちょっと漠然としています。

この数か月のテーマは「ジェンダー」です。まずは各自が自分の人生を振り返りました。「女性だから」という理由で、何かを諦めたり、人生を主体的に選択できなかったりした経験があったのではないか、そしてそのことに気づいていなかったのではないか、などを洗い出していきました。

その後、話は変遷し広がりを見せ、「かつては問題とされていなかったが、今はジェンダーの観点から不適切とされる表現がある」という話題になりました。そこで「ルッキズム」の問題に行き当たりました。

次の勉強会までに私なりに考えているところですが、ここで書くのは頭を整理するのにいいかと思います。

基本的な考え方は「他人の容姿について自分の価値観で判断してそれを口に出すことは、いけないことだ」ということです。ここで「自分の価値観」というのが、やっかいです。個人の好みの問題ではなく、思い込みや、世間のイメージに知らないうちに染められてしまっていて本人は無自覚、だったりするからです。

例えば、新しい小学校一年生のためのランドセルがここ何年も争奪戦になっており、「ラン活」などという言葉もありますが、どんな色のランドセルを選ぶのか、ここにもジェンダールッキズムの問題があります。

私が子どもだった時代も含め、「男の子のランドセルは黒」「女の子のランドセルは赤」の時代は長い。私は「赤」は嫌いでしたが、じゃあ「黒」にするか、という選択の余地はなく(というか、世間に逆らう根性も、男の子と同じ黒にする度胸も、当時6歳の私にはなく)、「仕方なく赤いランドセル」でした。学校(地方の公立小学校です)が赤いランドセルを指定した訳ではないです。ついでに言えば「通学カバンはランドセル」という決まりもありませんでした。通学にどんなカバンを用いるのか、本来は自由に決めることができたはずです。つまり、世間の根拠のない意向に従った(両親も私も)結果です。

人を「男と女」で区別する際に、なぜそれを現す色として「黒と赤、あるいは青と赤」しかないのだ、という疑問は、子どものころから持っていたと思います。私は赤が好きではなかったからです。「紅白」であれば、白が好きなのです。       

                                ー続くー

 

好きなものシリーズ ー花ー

永田りんこです。今、好きなものを集めてみることが、自分を見つめることになっています。

庭のムラサキカタバミ、花が咲いている時は、草取りの際にお目こぼし、です。子どものころ、この花の蜜を吸ったことを思い出します。今はやりません。庭を闊歩する猫が何匹かいるのですが、その猫が何かやらかしているかもしれないので。

 

オオイヌノフグリ、私はこの花がこの世で一番好きかもしれません。名前がどうにかならないかと、本当に切実に思います。

 

桐の花も好きです。五月の連休のころに上信越自動車道を通ると、人里に桐の花が咲いているのが見えます。それを見たくてキョロキョロしてしまうので、あのあたりは運転したくないです。

 

五月の連休の高速道路沿いでは、ハリエンジュの花もよく見かけます。これにも見とれます。

私の好きな花は、雑草とみなされる草の花や、木の花が多いですね。

 

小鳥好きが集めた小鳥のもの②

永田りんこです。

小鳥のもの、もっとあるのです。

イギリス・ADORA Design社「Secrets from Hidden Treasures」シリーズの、コマドリのトリンケットボックス(Trinkets Box)です。トリンケットボックスというは「小さなジュエリーボックス」という意味だそうです。背中のところがパカッと開いて、中に小さなコマドリのネックレスが入っています。写真ではわかりづらいですが、コマドリが乗っているのは黄緑色の洋梨、あまりの可愛らしさにデパートのイギリス展で衝動買いしてしまいました。

 

横浜の会社濱文様の「和タオルセミウオッシュ」、つまりタオルハンカチです。白い鳩が並んでいますが、首のところが赤いのが大半の中、緑色のが混じっています。白い鳩がほとんどですが、灰色の鳩もいます。写真だとわかりづらいですね。私の好みドンピシャで「このハンカチだけを一生使い続けよう! ハンカチ全てをこれにする!」とまで思い、まとめ買いを画策したのですが、いくら探しても、なかったのです。濱文様さん、復刻してくださいませんか? まとめ買いします。

 

2018年度のほぼ日手帳のカバー、鹿児島陸氏デザインの「鳥花柳」です。大好きですが、布製で汚れが目立ってきて、洗濯について悩んでいます。今はお休みさせていますが、また使いたいです。

 

「福良すずめ根付」です。「カプセルコレクション」とのことなので、きっといわゆる「ガチャガチャ」に入っているのでしょう。それがアマゾンに出品されていたので、思わず買ってしまいました。

 

Coral & Tuak のコースターです。繊細な刺繍です。友人からのプレゼントです。

 

ミナペルホネンのコースターです。同じく、友人からのプレゼントです。

 

今回このようにまとめてみて、大好きなものに触れている時間の嬉しさを実感しました。「持ち物は減らして身軽でいたい」と言うのも本当の気持ちですが、「身の回りに置くのは大好きなものだけ」を、これからも推進していきます。

小鳥好きが集めた小鳥のもの①

永田りんこです。小鳥が好きです。とは言っても、飼うことに関しては、小学生の頃の苦い思い出があります。文鳥セキセイインコを飼っていました。御多分にもれず、ちゃんと世話をしたとは言えない子どもでした。それに、翼を持つものを籠に閉じ込める罪悪感はつきまといます。もう小鳥を飼うことはしないでしょう。

それでも、小鳥好きはそのままです。小鳥グッズをついつい集めてしまいます。この十年以上、持ち物を減らしてすっきりすることを目指しており、ずいぶんとものを減らしたつもりです。ですが、小鳥グッズはどうもけっこう残っています。

小学生の頃、大好きだったシリーズです。「NAKAMURASEIKO RAINBOW」とありますが、現在この製造元がどうなっているのか、調べましたがわかりませんでした。

 

中学生のころ、友だちが作ってくれたフェルトの作品です。

 

何十年も前に、長野で買った鳩の小物入れ(香合とも)です。大正時代、山本鼎の「農民美術運動」から始まった長野県の工芸品です。今でも販売されているようです。

この黄色い鳩(楊枝入れ)は、一昨年、友人からいただきました。長野県須坂市「すのクラフト」の春原敏之氏の作です。赤い鳩も同じ作者でしょうか。

 

民芸品としては、こちらの鳩笛も、何十年も前からずっと家にあります。もちろん吹いたら「ホーホー」と鳴ります。

 

トミー・デ・パオラ『鳥少年マイケル』の絵を写した、陶器の小箱です。この絵本は絶版みたいで、今は古本でしか手に入りません。実家に残っているかどうか……?

 

小鳥グッズ、もっとあります。それはまた次回に。

芽を出すか? その後は?

永田りんこです。

庭のすみのハマユウが咲きました。

義理の母が植えたものかどうかも、今や定かではありません。でも、ずっとこの場所にあります。草取りする時には抜かないようにしているくらいで、特に世話はしていませんが、今年は咲いてくれました。

 

栗の木に青い実がついています。これも、いつの間にか生えていた木です。ずいぶん大きな木に育ちました。「桃栗三年柿八年」と言いますが、「植えた木に実がなるまでの年月」を数えていると思われます。ですが、植えることができるほどまでに木が育つのに、相当の年月がかかっているはずです。この栗は落ちた実が芽吹いたものですから、どこから数えればよいのでしょう。芽吹いてから三年目ごろは、ヒョロヒョロの若木だったことでしょう。栗の若木だとも認識されていなかったはず。雑草のように引っこ抜かれていたかもしれませんね。

 

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    アリとキリギリス       永田りんこ

 

あれは キリギリスになってはいけない という寓話

 

根性も体力もなくて おまけに人見知り

食べもの以外の好き嫌いは はっきりしている

 

責任感はそれなりに あるけれど

いったん「嫌」となったら もう逃げる算段が始まる

 

義理人情は 大切にしているけれど

我慢するような人づきあいは したくない

 

キリギリスの 何が悪い

歌って暮らすために 歌の練習しているんだ 見えない所で

好きな事だけをがんばっていて 何が悪い

 

ほんとうの幸せとは

永田りんこです。

大切にしている招き猫があります。

浅草に一軒だけ残る今戸焼「白井」の、「見返り招き猫」です。高さは6,5センチほど、江戸時代に流行ったそうで、浮世絵にも描かれています。身体をひねった「見返り」の姿勢で手招きしています。注文したのは2017年、一年待って、私のところに来てくれました。

 

上の写真は、待乳山聖天様で授かった貯金箱です。聖天様は現世の願いを叶えてくださるそうです。そうすることで、キリのない欲の心をおさめてくださるそうです。

 

友人の画家・長田恵子さんの銅版画「ギフト」は、鳩のような鳥が背中に星をたくさん背負って飛んでいる姿が、描かれています。大好きな絵です。

Happyや現世の願いや欲は、棚からボタモチのように降ってきて叶うものではない、とわかっているつもりです。でも、未熟者で怠け者の心は、ついつい、降ってわくような幸運が勝手にやってくることを、あり得ないとわかりながらも願ってしまいます。

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      願ったものは        永田りんこ

 

素敵な家に住んで インテリアを美しく整え

優しい夫と 可愛く優秀な子どもに囲まれ

やりがいのある仕事を持ち

打ち込んでいる趣味があり

 

そんな 人が羨むような生活を

したかったのだろうか 私は

 

かっこ悪くて いい

おしゃれでなくて いい

 

本当の願いが叶ったら

満足して 心の平安が得られるのだろうか

私の心の平安は 私や周囲を幸せにするのだろうか

 

本当の願いが叶ったら

他には何も いらなくなるのだろうか

 

わからない 私のこれまでは 恥の連続だから