長年参加している勉強会のことージェンダーとルッキズム①ー

永田りんこです。

子どもが同じ幼稚園に通っていた母親同士、というつながりの勉強会に参加しています。メンバーは皆「子どもは幼稚園に通った」という基盤は同じですが、それぞれの人生は実に様々です。そして勉強会のテーマは「子育て」ではなく、自分自身が「美しく生きるということ」で、ずっと変わっていません。決して美容のことではなく「よりよく生きる」ということです。これは大テーマなので、ちょっと漠然としています。

この数か月のテーマは「ジェンダー」です。まずは各自が自分の人生を振り返りました。「女性だから」という理由で、何かを諦めたり、人生を主体的に選択できなかったりした経験があったのではないか、そしてそのことに気づいていなかったのではないか、などを洗い出していきました。

その後、話は変遷し広がりを見せ、「かつては問題とされていなかったが、今はジェンダーの観点から不適切とされる表現がある」という話題になりました。そこで「ルッキズム」の問題に行き当たりました。

次の勉強会までに私なりに考えているところですが、ここで書くのは頭を整理するのにいいかと思います。

基本的な考え方は「他人の容姿について自分の価値観で判断してそれを口に出すことは、いけないことだ」ということです。ここで「自分の価値観」というのが、やっかいです。個人の好みの問題ではなく、思い込みや、世間のイメージに知らないうちに染められてしまっていて本人は無自覚、だったりするからです。

例えば、新しい小学校一年生のためのランドセルがここ何年も争奪戦になっており、「ラン活」などという言葉もありますが、どんな色のランドセルを選ぶのか、ここにもジェンダールッキズムの問題があります。

私が子どもだった時代も含め、「男の子のランドセルは黒」「女の子のランドセルは赤」の時代は長い。私は「赤」は嫌いでしたが、じゃあ「黒」にするか、という選択の余地はなく(というか、世間に逆らう根性も、男の子と同じ黒にする度胸も、当時6歳の私にはなく)、「仕方なく赤いランドセル」でした。学校(地方の公立小学校です)が赤いランドセルを指定した訳ではないです。ついでに言えば「通学カバンはランドセル」という決まりもありませんでした。通学にどんなカバンを用いるのか、本来は自由に決めることができたはずです。つまり、世間の根拠のない意向に従った(両親も私も)結果です。

人を「男と女」で区別する際に、なぜそれを現す色として「黒と赤、あるいは青と赤」しかないのだ、という疑問は、子どものころから持っていたと思います。私は赤が好きではなかったからです。「紅白」であれば、白が好きなのです。       

                                ー続くー